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ふきのとうとかえりみち

 

 

 大学からのかえりみちに、いつもの目線、左下のところに小さなふきのとうを見つけた。かわいい。

 

 

 

 

 実家ではよくふきのとうは天ぷらになって、食卓にならぶ、春いちばんの花をわたしたちは食べてしまう。

山の菜は、にがいからあんまり好きじゃない。都会ではめずらしくって、高く売れるんだって、伯父さんがいつだか言っていた。

 

 

 

 

おばあちゃんは、わたしがかわいいワンピースを着て髪を男の子みたいに短くして帰ると喜ぶ、へんてこ。

 

 

 

 

 最近は祖父母はもちろん、母も父も歳を取った。もう他人から見ればいいおじさんおばさんなのだと思う。それでも母はなんだか近頃子ども還りをしているみたい。すこし子どもっぽいよと言ってみるけれど、母に言わせると、親が生きているうちは子どもなんだそうだ。そりゃ屁理屈だ。でもとってもいい。

 

 わたしはいつまで子どもでいられるだろう。

 

 

 

夕方がこんなに遅くなったので、春を待つのももう終わり。
なごり惜しげな冬を払いのけて、下を向いて歩く日も終わり。

 

 

 

終わる冬へ

 

今はもう無くなった母校の小学校の校舎の1階音楽室、昼休みのピアノの椅子の上がわたしの特等席だった頃、窓にもたれかかってひとりで雪を見てるのが好きだった。

 

 

 

 

 

 

 

クリーム色の、ひび割れが目立つようになった校舎の壁に冬のつめたい風が遮られて、ゆっくり落ちてくる雪を真下から見上げた。たった20分程度のお昼休み、あっという間のお昼休みだけれど、この部屋だけ、たったひとりで音楽室のピアノの前にいる時だけ、時間は止まっている。

廊下に出てすぐの角を曲がったころにある体育館の喧騒もここには遠くの世界の話で、それがとても心地いい。古い校舎は未だに電気暖炉のようなストーブを使っていて、天井から窓に向けて煙突がへびのように部屋の中を這っている。小学校の音楽室ではめずらしく、有名な作曲家たちの肖像画も飾っていなくて、学校の怪談のたぐいが苦手なわたしでもこの部屋はぜんぜんこわくない。

 

ストーブの音を聴きながら、すこし眠たくなってきた。落ちてくる雪を見飽きたら、いま習っているお気に入りの曲を弾こう。職員室にまでわたしのピアノが聞こえていると知っているけれど、先生はなにも言わない。きっとだれも邪魔しに来ない。

 

 

 

 

 

 

 

 

冬になるともう一度あのゆっくり落ちてくる雪が見たくなる、無くなった校舎の跡地は思っていたよりもずっと小さくて、忘れないようにもう跡地に足を踏み入れなかった。

 

冬が来て歳を取って、わたしたちは大人になろうとしていて、そして子どもの頃のわだかまりに終止符を打とうとした。

成人式で久しぶりに会ったあの子とは、高校時代の朝の始発電車みたいにすんなり隣に座った、だんだんお母さんに似てきていた気がする、思わず笑ってしまった。 溜めていた気持ちみたいなとりとめのない話をしようとしたけれど、なんだか忘れた。いいや、めでたい日だし、いまさらどうこう、なんだか圧倒的にくだらない。

秋田ではめずらしく晴れてた、いい天気の日だった。

 

同級会で幼馴染のあいつとも話した、ひと言だけ、ずっと後悔して謝りたかった小学5年生の時の話をしてみた。けれどもちろん覚えているはずもなかった、それでよいけれど、迷惑だったかなあと、なんだか気が抜けたのと、途端になんだか自己満足なだけだったなあと、がっくりして疲れた1日だったことを思い出した。

 

 

もう冬が終わる、

成人式はもう二度と会わないための儀式のような気がした、実際、会ったって話すこともないような気がする。それならわざわざ5年後みたいにしなくてもいいのにね、もう少し、たいせつにしていたおもちゃ箱をていねいに底までひっくり返すようなかわいい話をしたかった。でも仕方がないね。

 

 

 

終わる冬を想うとき、いつでもあの時間を思い出そう。

 

 

初恋に捧ぐ

 

 

全ての初恋に捧げる

今、僕はぴくりとも動かなくなった愛車の前で途方に暮れている。動かない車ほどみじめな物は無い。渋滞にはまったレッカー車を果てしなく待つ。通りすがる車が邪魔だとクラクションを鳴らす。足元には無数の吸い殻。「どう仕様も無い」という状態はまさにこの事だ。世の中には「どう仕様も無い」事がいっぱいで、その連続の中に僕らは生きている。

 西山君が突然いなくなった。僕はただ、揺るぎ無い事実を噛み締める事しか出来ない。「どう仕様も無」かった。締め切りが間近に迫ったこのライナーノーツの事をふと思い出した。幾度となく書き直しては捨てた。何を書くべきか定まらなかった。煮詰まっていた。「どう仕様も無い」のだ。

 結局、僕にとっては初恋の嵐のアルバム、それだけで完璧だ。僕が書き足す事なんて何も無いよ。このアルバムを手にした人々の心に、それぞれ違った初恋の嵐が育ってゆけばいいと思っている。

 この場を借りて言いたい僕の望みはただひとつ、とにかくこのアルバムを楽しんで欲しい。この作品はあらかじめ悲しいストーリーの元に語られる運命を背負っているが、そんな話は抜きにして、この極めて純度の高い奇跡的なロックンロールに、素直に耳を傾けて欲しい。西山君の剥き出しのメッセージは、あらゆるイマジネーションを喚起させてくれる筈だ。ある若者にとっては音楽を始める切っ掛けとなるかも知れない。それはその人なりの楽しみ方だと思う。生前の西山君を知る人は激しく嗚咽するかも知れない。語弊があるかも知れないが、それもまたその人なりの楽しみ方だと思う。またこの作品を真っ向から否定する事だって、ひとつの楽しみ方だと僕は思う。嬉しい事も悲しい事むかつく事も、全て並列の感情として楽しんで欲しい。

 結ばれる事をあらかじめ諦めている初恋、みたいな、「どう仕様も無い」出来事に翻弄され続ける日々の、ほんのひとかけらとして、このアルバムが長らく享受される事を望んで止まない。そんなかけらの積み重ねで、僕らはそれぞれに、少しずつ大人になってゆく。

                            - 土橋輝志

 

 

 わたしが高校生の時からずっと好きなアルバム、初恋の嵐のファーストアルバム「初恋に捧ぐ」のライナーノーツです。

 

3月2日、初恋の嵐ボーカルギター西山達郎の命日に、彼のことをどうしても書きたくなって、なんども聴いたアルバムの、なんども読んだこのライナーノーツを久しぶりに開いた。そしたら、ああ、これはきっとわたしの言いたいことが、そのまんまだ、と思ったのでまるごと全文を載せた、良くなかったかもしれないけれど。

 

人の命日は、その人のことを忘れないためのものだと思う。今日だけ、どうかすこしだけでもいいから彼の生きた証のような、「どう仕様も無い」ものを感じたくて、聴いてほしかった。

 

 夏のはじめの、うだるような夜に眠気の奥で聴いたこのアルバムの、やるせない恋のような、途方もない不安のような気持ちが今も鮮明に思い出せるような気がして、

 

今年の夏に活動休止してしまう初恋の嵐の、音楽だけはいつまでも鳴り止まないでほしいと願いながら今夜は円盤をまわします。

やまびこ

 

ずっと昔から流れる景色が好きで、あるく速度の景色も車の助手席から見る車窓も、路線バスだって鈍行列車だって特急列車だって、流れてゆくものならなんでも。

どこだっていつだって眠たくなるわたしだけれど、乗り物の景色は起きていられるなら何時間でも見ていたい。はじまりはひどく乗り物に酔いやすい小さなわたしを親が助手席に乗せるようになったからだったかな、ー海や遠くの山を見なさい、ずいぶん乗り物に酔わなくなった。

 

流れる景色の中ではたくさんものを考える、いつもよりたくさん。できるだけ澱みなく流れるみたいに、立ち止まって物想いに耽るよりもずっとずっと好き。

 

たとえばわたしが住むアパートの小さい部屋はわたしの脳だと思う、あそこでたくさんは考えられない、澱みは脳に留めたくない。落ち込んだら眠って脳を停止するか、脳から飛び出す、どこか流れる景色へ。

 

もったいない気もするのだけれど、こうして流れる景色の中で考えるものごとは流れる景色と同じで記憶の中でも澱みなく流れてゆく、留められない。ときどき忘れたくない、と、思っても数分前に見た建物のようにあっという間に忘れてしまう。

それでいい気がする。どんどんと巡ればいい、やっぱり澱みなく。

 

ひとり移動中に読むには相応しくない本をお供に持ってきてしまったせいで、流れるはずのものをここに書くはめになってしまったけれど、少し陽射しの強い昼下がりの新幹線の車窓は、ぼんやり日和。

 

東京は春を先取りしたような気候で、めじろが遊ぶ梅の木もこれから花ざかりみたいだった。

大学の春休みは長い、これからおさんぽ日和が増えるととても良い。

 

 

 

追記

 

夕方になってきて、なんだかぼんやりにも興が冷めてきて初めて気付いたのは、わたしが時間の流れーというよりは陽の高さ明るさ、にこだわり過ぎていること。あるいはルールなのかもしれない、自分自身だけの暗黙の掟。

 

次に部屋を借りるなら、よく陽の入るところに住まなければ。今の部屋は驚くほどわたしの脳の思いのままになるので気に入っているけれど、陽あたりの悪い擦り硝子の窓ではカーテンをしていても開けていても大して差がないみたい。

 

 

ようするに、だんだん陽の落ちる黄昏の窓際で外を眺めるなんてそんな恥ずかしいことがわたしには様にならない。つまるところ似合わない。おかしな場面に小心者を発揮するところがわたしらしいなあ。

旅の途中

「悲しい歌もいつか懐かしい歌になる」の悲しい

Twitter( @ak0_0me )

 

かなしい。

悲しかった歌がいつのまにか優しくなってることがあって、なんだそれ、と思ってしまう。なんだよそれ、そんなの聞いてない。そんなの違うよ、お前はいつまでもわたしを絶望させてくれればよかったのに、でも、そうか、変わるのか。と、前にも思ったことだった。

 

いつも聴いてた曲も読んでる本のここちも変わってしまうのなら、ぐずぐずしてる暇なんかない。今までに聴いた数百数千の曲たちと早くもう一度出会わなくては、すべて。あの時の本も、絵本も。うーん、そのままにしておきたい読みかけの本もある。

 

ああ、もうすぐ10代がおわる。じめじめした10代だった。ぎとぎともしてたし、ふわふわもしてた、とってもたのしかった。

 

今年の目標をようやく決めました。もしかしたら20歳の目標にするためだったのかもしれない。

気づけば冬至からしばらく経って、日がぐんと伸びた、朝ももう遅くならなくなった、あいかわらず起きれないけれど。

 

この町の冬は春を待つ時間が長くていいな、歩きながら見上げて、白いやわらかい背中に触れたい。

新しくまた本や音楽や人と出会おう、たくさん。きっとまたどんどん変わってゆく。でもそれらは全部わたしにとって同じでありたい。だってまた、春がくるんだもの。ああ、楽しみだなあ、なんて、全然まだ先なのに。春を待つことがいちばんわたしを明るくさせる。文にもあらわれる。いつまでも待っていられる。