かなしみ

「やさしさ」のちょっとした続き

 

 今は、最近はというと、かなしみについてよく考えている。

なんだってこうもどうしようもないことばかり考えてしまうんだろう。冬だからね。

寒いと俯きがちだし、冬は終わりの季節だし、志村正彦の死んだ季節も冬だった。どうしようもない人間なのでどうしようもないこと考えるのは仕方がないのかもしれないな。もはや趣味の領域なので。

 

今まで見聞きした「かなしみ」をすこし考えてみた。アンディモリは「Sunrise & Sunset 悲しみは消えない」って言ってた。それはきっと日が昇ってまた日が落ちて時間が経っても消えない。くまおり純は飼っていた犬について「悲しみは持続性のない感情かもしれない」って言ってた、「とはいえいつだって恋しい」とも。

 

どうかな。たとえば君が、もうどこにもいないあいつのことを考えて流すかなしい涙は、いつかどこかで恋しい涙になって、そしてそれがずっと続けばいいなと思う。でもそれだけがかなしみではないんだろうな。絶対にゆるがないかなしみもあるんだろう。

かなしいのが苦しい人が、かなしみにとらわれ続けているのはわたしもすごくかなしいなと思う、どうしたらいいのかな。簡単に言ったけど。それが難しいから「悲しみは消えない」のかもしれない。

 

ひとつ思い出した。あけたらしろめが言ってた「 " 悲しい歌もいつか懐かしい歌になる " の悲しい」という言葉、が、どうしてもひっかかっている。

ひっかかるというか、むしろ思い当たりがありすぎる。昔ここの日記にも似たようなことを書いた。これを読んでいる人だってひとつやふたつあるだろうし、ふと今また遠い昔のことを思ってしまうだろうし、しかもそれはだいたいが " 期待はずれなほど感傷的にはなりきれず " 、というやつだ。わたしたちは、きっとこの言葉に呪われている。いや、この言葉に呪われているというよりかはむしろ、彼が呪いに名前をつけてくれたって言ったほうが正しいかもしれない。

 

この呪いがある限り、かなしみは消えることすら許されないんだろうか。かなしみは消えることすらかなしいなら、かなしみってなんだ。かなしみはかなしみしか生まないのか。そんなのかなしいよ。ほら、こうやってね。そんなにわたしたちはかなしみと一緒に生きていかなきゃならないんだろうか。かなしみをもった人はやさしいと言ったものだけれど、やさしさには、やさしくあるにはかなしみが必要なんだろうか。かなしみは怒りに変わらないだろうか。どうしたら君のかなしみをすこしだけでいいので分かってあげられるだろうか。

 

分からないことだらけです。わたしは堂々巡りをしてしまうだけ。

 

最近はまた本をたくさん読むようになった。たくさん買った。たくさん借りている。こころなしか、かなしみを含んだテーマを扱った本が多い気がする。わたしがかなしみに敏感になっているだけの気もする。屋根の上のブランコで夜を過ごし動物たちと会話をする男の子が出てくる小説を読んだ、なんだかかなしかった。ちいさい頃の弟に会いたくなった。

 

かなしみとやさしさは全然ちがうけれどやっぱり似ているなあ。

 

わざわざこんなブログまで足を運んで、これを読んでいるあなたや、君や、君たちは、かなしみをどう考えているんだろう。どうかぜひ会ってお話がしたいです。

 

 

追記 

 

すごくぼんやりした話をした。文章を書くと言いたいことが散漫になりがちだ。書くけどあんまり得意じゃない。

 

ずっとずっとかなしかったことが、時間が経って丹念に撫でてたら、そしてそのあとよく日にあてて風をあてて、放っておいたら、すこし平気になってきた。平気になってきたのに、なんだかひどく不安だ。気持ちの奥底にずっとあるのだと思っていたものがいつのまにかなくなっていることは、すごく怖いかも。

でもかなしみの深さで何かを測る必要はないよな。張り合う必要もないしな。かなしみがなくなるかなしみと、かなしみがなくならないためにすこし無理をしてかなしむことは、どちらがかなしいんだろう。それこそ不毛だ、かなしみなんかなくならないかもしれないし。

 

じゃあ、さて、どう生きよう。というお話でした。わたしにはめずらしく未来のお話かも。やさしくなりたいね。

毎日こんなことを考えています。