やまびこ

 

ずっと昔から流れる景色が好きで、あるく速度の景色も車の助手席から見る車窓も、路線バスだって鈍行列車だって特急列車だって、流れてゆくものならなんでも。

どこだっていつだって眠たくなるわたしだけれど、乗り物の景色は起きていられるなら何時間でも見ていたい。はじまりはひどく乗り物に酔いやすい小さなわたしを親が助手席に乗せるようになったからだったかな(「海や遠くの山を見なさい」)、ずいぶん乗り物に酔わなくなった。

 

流れる景色の中ではたくさんものを考える、いつもよりたくさん。できるだけ澱みなく流れるみたいに、立ち止まって物想いに耽るよりもずっとずっと好き。

 

たとえばわたしが住むアパートの小さい部屋はわたしの脳だと思う、あそこでたくさんは考えられない、澱みは脳に留めたくない。落ち込んだら眠って脳を停止するか、脳から飛び出す、どこか流れる景色へ。

 

もったいない気もするのだけれど、こうして流れる景色の中で考えるものごとは流れる景色と同じで記憶の中でも澱みなく流れてゆく、留められない。ときどき忘れたくない、と、思っても数分前に見た建物のようにあっという間に忘れてしまう。

それでいい気がする。どんどんと巡ればいい、やっぱり澱みなく。

 

ひとり移動中に読むには相応しくない本をお供に持ってきてしまったせいで、流れるはずのものをここに書くはめになってしまったけれど、少し陽射しの強い昼下がりの新幹線の車窓は、ぼんやり日和。

 

東京は春を先取りしたような気候で、めじろが遊ぶ梅の木もこれから花ざかりみたいだった。

大学の春休みは長い、これからおさんぽ日和が増えるととても良い。

 

 

 

追記

 

夕方になってきて、なんだかぼんやりにも興が冷めてきて初めて気付いたのは、わたしが時間の流れーというよりは陽の高さ明るさ、にこだわり過ぎていること。あるいはルールなのかもしれない、自分自身だけの暗黙の掟。

 

次に部屋を借りるなら、よく陽の入るところに住まなければ。今の部屋は驚くほどわたしの脳の思いのままになるので気に入っているけれど、陽あたりの悪い擦り硝子の窓ではカーテンをしていても開けていても大して差がないみたい。

 

 

ようするに、だんだん陽の落ちる黄昏の窓際で外を眺めるなんてそんな恥ずかしいことがわたしには様にならない。つまるところ似合わない。おかしな場面に小心者を発揮するところがわたしらしいなあ。